完璧主義なわけではない

新しい仕事の準備で気が変になりそうだった。

やることが多くて、どう頑張っても時間が足りないし、頑張りすぎた翌日はその反動で何もできなくなるのでこのペースだと間に合わないことは分かりきっていた。

 

それでも仕事の開始日は決まっていて、無理でも何でも最低限間に合わせなくてはならない。

 

心臓は始終バクバクしていて、多分瞳孔も開ききっていたのではないかと思うくらいだ。

このままだと叫び出して高いところから身を投げてしまいそうで(実際そんな度胸もないが)、そこから逃れたいあまりにまた電話相談にかけた。

 

一通りの状況を話すと、カウンセラーは言った。

「あなたは完璧主義なんじゃないでしょうか」

絶対、違うと思った。だけど、どこがどう違うか言語化できないし、完璧に準備できれば回避できる苦しみではあったので、そういうことなのかな、とその時は思うことにした。

 

「6割でやってみませんか」と言われ、6割ならできなくもない目標なので、それでやってみることにして、電話を切った。

 

6割。6割といっても、どう6割なのかでかなり内容が違うと思う。

頭からやっていって、6割のところで力尽きるのか。

大枠を作ってから6割埋めるのか。

 

だいぶ時間が経って、ようやく気付いた。

私は完璧主義者ではない。それは確かだと思う。

完璧主義者ではないのに、完璧にできないことを不安に思うのはなぜか。

 

それは、私は何事においてもすべきことの全容を、大まかに捉えることが苦手だからだ。

6割といっても、全体がわからないので6割が正しく認識できない。

手当たり次第にやっていって、あるいは目先のことからやっていって、

最終的に辿り着く形がわからないから不安なのだ。

進む方向が正しいのかどうか。やっていることが合っているのかどうか。

それがわからないから不安なのだ。

 

おそらく私は何らかの発達障害を持っているのだろう。

心療内科の先生に相談したことがある。先生は、障害の有無、障害の種類について究明することに反対だった。

個性として受け止めて、それを活かして生きていく方がいい。そういうことらしい。

 

だが思う。そんな、自分の特性を活かして生きられる人なんて、そうはいないんじゃないだろうか。

人にはない生きにくさを持っていたら、異色なものとしてはじかれたりしんどいことばっかりだ。

本当に、どう生きていったらいいのだろう。

 

というか、まずは仕事だ。

6割と、とりあえず考えたので、どう6割になっているかはわからないがひとまず6割かな、と思えるところまで埋めてみようと思った。

仕事を任せる側は、よもや6割の準備とは思っていないだろう。そのくらいの能力しか期待されていないのも嫌だし。

なので、6割やったところで大枠を作った、ということにしてみようと思う。

そこから気付いたところを埋めていく方針にして、今回は乗り切ってみようと思う。